「海気」と呼ばれた、甲斐の絹。

甲斐絹のルーツを辿ると今からおよそ400年前の慶長年間(1596〜1614)にまで遡ります。
オランダ南蛮船に乗った更紗などと共にもたらされ、当時は加伊岐の文字を当て、また、海気、カイキ、改機、海黄、海機とも書かれた先染織物の「近渡裂(ちかわたりぎれ)」にその呼称の源を発しています。
なかでも最も多く使用されたのが「海気」です。明治時代も30年代頃まで地元でも使われていました。それがいつどのような経緯で「甲斐絹」と呼ばれるようになったのか、その語源には諸説がありますが、甲州(甲斐の国)の特産物であったことから、産地としての認知度を高めるためうまく甲斐という文字を当てはめて定着したものと推察されます。
また一説にはその起源はさらに2200年以上も遡り、紀元前219年、秦の始皇帝より遣わされた徐福一行が不老不死の薬草を求めて富士山麓へと辿り着き、その地に古代中国の“養蚕と機織り”の技術を伝えたという古文書が「徐福伝説」として残るほど、この富士北麓地域は織物技術の古い来歴を宿しています。
さらに自然環境にも織物産業が根付いてきたいくつかの理由を見出すことができます。富士の湧水はきわめて硬度が高く色糸の発色を高めること。また、ほとんど塩素を含有しないため色ずれのない微妙な色合いの再現に適していることなど、こうした自然の恵みを背景にして「甲斐絹」は育てられてきました。
気の遠くなるような手間と工程を経て生まれた「甲斐絹」は、その独特の張り、光沢や風合い、そしてさまざまなデザインで折々の時代、人々の心を捉え続けてきました。江戸時代には井原西鶴の「好色一代男」や八百屋お七で有名な「好色一代女」に郡内縞として登場し、粋を極めたそれら羽織裏地は当時の上流社会で後世にその名を残すほど大評判となり、その後、昭和初期まで高級羽織裏として隆盛を極めることになりました。


左端の写真は昭和30〜40年代頃のもので、経糸の整経(経糸を揃えて織機に載せられるようにする)をしているところ。
中央の写真は昭和30年前後、絹屋町(現在の富士吉田下吉田)の「市(いち)」の様子。週に一度東京などから仲買人が絹屋町に集まり、生地を買い付けにやって来ました。
右端の写真は昭和20〜30年代頃の機経(ハタヘ)をしているところ。機経とはぬれ巻きとは方法が違うが、経糸の整経の方法です。 (資料提供/富士吉田市歴史民俗博物館)

山あり谷ありの、甲斐の絹。

甲斐絹は県産業の一翼を担うものと位置付けられ、明治期から県は技術員の養成を目指した色染所(しょくせんじょ)の開設や共同組合の設立などバックアップを盛んに行い、次々と施策を発表、実施してきました。例えば、明治29年に設立され後に工業学校へと改組されることになる南都留郡染織学校や、明治38年設置の山梨県工業試験場などは、人材と生産技術の両面から郡内の織物産業を支え続けてきました。
こうして度重なる染色法や意匠の改善、機織法の進化などによって甲斐絹は地域産業としての評価を確立し、その販路も国内にとどまらず、当時の朝鮮をはじめとする海外への販路拡張も図られるようになりました。明治42年から大正2年にかけての第一次全盛期にはじまり、昭和初期まで安定生産期は続きますが、昭和16年の第二次世界大戦を境に甲斐絹の生産額は激減の一途を辿り、化学繊維の大波に洗い流されるかのように、戦争の終焉とともにその姿を消すことになります。
しかし伝統文化として伝えられてきた織物の遺伝子は、織物職人の中にしっかりと受け継がれていました。戦後、優美な色合いと格調を誇った心と技は近代設備と高度化した技術力を通して甦り、全国でも屈指の細糸、高密度の先染織物産地としてふたたび注目を集めるまでになりました。
世紀も変わり、人々の心のあり方や豊かさへの価値観も新しい時代に向けて変わりつつあります。そして今、伝統文化資産としての甲斐絹は来るべき新しい豊かさの証として復活を果たそうとしてます。

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